56 親分とバクチの話

56 親分とバクチの話

 昔はこの大和にも貸元、親分などと言われる人が幾人かおりました。中でも狭山村の馬蔵親分や、芋窪の石井のカンジ親分は有名です。
 馬蔵親分は江戸末期から明治ごろの人で、背も高く、恰幅の良い偉丈夫で耳の下には小さな瘤があったそうです。坊主頭に着流しで村の中を歩く姿はいかにも大親分の風格充分でしたが、格好だけでなく、その気前の良さもたいしたものでした。
 幾人かの人達に刀をチラつかせて時折り大枚を無心することもありましたが、そういう人達には後からその見返りに「お前には一町歩、あんたには二町歩」と畑や田をポンポンと分けて与えたりしたものです。

 この親分の元で度々賭場が開かれました。賭場とは言っても、この辺りではアゼッポバクチと言って畑の境のうつぎの木の蔭(かげ)や、山の窪地にゴザを敷いていざ御開帳というのが普通でした。賭場の常連はごく普通の職人さんやお百姓さんが主でした。この頃はいたるところで様々なバクチが行なわれていたようです。

 最も多いのはやはりサイコロを使った丁半トバクでした。御存知のように二つのサイコロを壺に入れて振り、出た数が丁(偶数)か半(奇数)かを当てる方法です。ところがこの頃はまだあまり算術が普及しておりませんので、サイの目が三と五など出るとそれが丁なのか、半なのか咄嗟(とっさ)には解らない人も多く結構ごまかされてしまった人もいたということです。また、サイコロの中に鉛を仕組んだイカサマも横行していて、中にはすってんてんに負けて裸にされ「裸りん」とあだ名をつけられた人や、畑まで取られてしまった人などもいたそうです。

 しかし親分は身近な人達には絶対バクチに手を出さない方がいいと親切に言ってやるという人でした。目の前で壺の振り方や、いかさまの仕方などを演じてみせて決して勝てないのだから、と聞かせたということです。

 さて、天気のよい昼間に山の中で賭場を開いていれば、自然と集って来るのは子供達です。子供達は近くの木によじ登って、上からサイコロに夢中になっている大人達を眺め、だれが勝ったと言っては騒ぎ、誰が負けたと言ってははやし立てるので、負けている者は苛々するし、勝っている者は気が散るし、言ってみれば迷惑な存在でした。そこで親分は一、二銭の小銭を与えて、子供達を追い払ってしまいます。ところが、それに味をしめた子供達は、その小銭でお菓子などを買込むと、またもや賭場に現われてくるのです。これには賭場の連中もほとほと手を焼いたということです。大人の賭場からまんまと小銭をまき上げた子供達こそ本当の大親分かもしれません。

 時には警察が手入れにやってくることもありましたが、大方みんなは山の中へ逃げ込んでしまいます。ところがある時一人の気の弱い男はいざ逃げる段になって走り出すと、着物の裾が木の株にひっかかってしまい、これはてっきり警官に押えられたのだと勘違い「だんな、どうか勘弁してくんなせえ」と這いつくばってしきりに頭を下げたという話もあります。

 また、馬蔵親分は東京の賭場の方へも度々出掛けていきました。この土地では、読み書きの出来る東京風のインテリ親分として幅をきかせていましたが、いざ東京まで出て行けば田舎のおじさんに過ぎなかったようです。一度などはバクチに負けて手持ちの金品をまき上げられた上に、ポン引きつきで帰って来て、「北海道のタコ部屋に売り飛ばすそ」とおどされ、畑を売ってお金を渡したということもあるそうです。

 石川の奥の辺り槌ヶ窪では、シヤモッカイと呼ばれるバクチも行われていました。これは軍鶏を使ったいわば闘鶏で、六尺四方(百二十センチメートル)の土俵の上で二羽のシャモを闘わせ、それに一、二銭の金を賭けるものでした。山の入口の道筋に見張り番が立ち、手入れに対して用心していました。このバクチも人気が高かったらしく、中には泊り込みで他の村からやってくる人もいた程でした。

 人々はシャモを非常に大事にしていたので、賭場へ持って行く時は、人目につかないようにするためもあってふところへ入れて運んで歩いたということです。(『東大和のよもやまばなし』p123~125)